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ピアノの誕生とその歴史を知る〜第1回【紀元前から18世紀まで】

近年は仕事でもプライベートでもピアノに触れる機会が増えたのですが、実はピアノのことをちゃんと理解していなかったりします。
ピアノという楽器がどうやって誕生し、長い年月を経てどう変化し、身近な存在へと変貌していったのか。歴史を知るだけで、ピアノという音楽文化を理解する手助けになるかもしれません。

ということで、夏休みの自由研究課題の一貫としてピアノの歴史を調べてみました。

ピアノの祖先


ピアノの祖先は2種類の弦楽器に分類されます。一つは弦をつま弾くもの、そしてもう一つは叩くものです。
弦をつま弾く楽器として古い時代には伴奏にハープやリラが使われていました。これらの楽器は音がより反響するように弦の下に響板を持つように改良され、プサルテリーが誕生します。
プサルテリーは、チェンバロ誕生のキッカケとなり、弦を叩いて演奏する楽器のダルシマーは、初期のピアノを考案するきっかけとなります。

鍵盤楽器は、紀元前500年頃にギリシャ人の技師クテジオビスがヒュドラウリスという水圧を利用した水オルガンを作ったのが始まりとされています。
初期キリスト教の時代には、水圧にかわってふいごの付いたオルガンが登場します。初期の頃の寺院のオルガンは大掛かりなもので、数人の屈強な男が汗をかきながらふいごのテコを動かしていたそうです。

その後、移動式もしくは中くらいの大きさの据え置き型オルガンが協会で使われていきます。そして、このオルガンで初期の頃から使用された鍵盤は有鍵弦楽器へ採用され、クラヴィコードが誕生します。

クラヴィコード

Photo credit: Internet Archive Book Images via Visual hunt / No known copyright restrictions


クラヴィコードは、モノコード(音響箱に弦を張って、長さ、太さ、引っ張る力などを変えることで音程を測定する器具及び楽器)に鍵盤が付けられた楽器です。

クラヴィコードのメカニズムは非常に単純で、鍵盤の先端にはタンジェントという金属片が付いており、鍵盤が押し下げられるとこのタンジェントが2本の弦を叩きます。タンジェントは駒の働きもするため、タンジェントが接触する位置によって弦の振動する長さが決まります。
鍵盤を押している間はタンジェントが弦を押し上げた状態になっており、繊細な音が響き続けます。
指のタッチに非常に敏感で、鍵盤を押す力を微妙に加減することによって少しの音量変化やビブラートを付けることが可能です。

音量が小さいため合奏や伴奏には不向きですが、1人で楽しんだり周りを囲んだ友人たちのために演奏するための楽器と言えるでしょう。

チェンバロ


チェンバロは、別名ハープシコードと呼ばれている、金属弦を引っ掻いて音を出す楽器です。チェンバロの他に、ヴァージナル、スピネットという小型のチェンバロもあり、小型で持ち運びが容易であり、価格も安かったのでクラヴィコードと同様に卓上で演奏する家庭用鍵盤楽器として人気がありました。

チェンバロの発音機構は、鍵盤の後ろにある木製のジャック(長い木片)に、プレクトラムという爪(カラスの羽軸、鯨の骨、貝殻、馬の蹄、真鍮、木、皮などを使用)が取り付けられており、鍵盤が押し下げられるとジャックが跳び上がり、プレクトラムが途中で弦を引っかきます。鍵盤を離すとジャックが落下し、わずかにプレクトラムが弦に触れますが、目立った音を出さずに元に戻ります。

チェンバロは、機会的な音質でしたが、ピアノが普及する18世紀の末まであらゆる機会に用いられました。
特に、17世紀から18世紀の合奏音楽には欠かせない楽器でした。

第四の鍵盤楽器、ピアノの登場

Photo credit: zigazou76 via Visual Hunt / CC BY


繊細な響きを持つ安価なクラヴィコードは教会や学校で多く使用され、チェンバロは宮廷内の演奏会用楽器として人気を博します。
しかし、クラヴィコードはピアニッシモからメゾピアノ程度の音量であり、チェンバロはクラヴィコードよりも音量はあるけど強弱が付けらないという2つのこの楽器は、次第に表現豊かな声楽曲において役に立たなくなっていきます。

また、中流階級によるアマチュア音楽家の急増による鍵盤楽器の供給不足やメンテナンスの難しさも問題となっていました。そこで、クラヴィコードのような発音機構を持ち、もっと音量が大きく、音の強弱や音色が自由に弾き表せるような新たな楽器を望む気運が高まっていきます。

1709年に登場したのが、フィレンチェのチェンバロ製作者、バルトロメオ・クリストフォリによるグラビチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ(優しい音と強い音を持つ大型のチェンバロ)です。
最初はこの長たらしい名前が付けられていましたが、やがて「ピアノ・フォルテ」や「フォルテ・ピアノ」と略されるようになり、「ピアノ」という呼称になります。

当時使われていた鍵盤楽器の一つ、クラヴィコードと比べて最も違う点は、金属製のタンジェントの代わりに革巻きのハンマーが使われていること、翼型の楽器であること、鍵盤の動きに連動するダンパー・システムを持つこと、そして最も重要なものがエスケープメント(離脱装置)を導入したアクションです。
このクリストフォリが何度も改良しながら作り上げたアクションは、現代のピアノが備えているほとんどすべての機構を備えています。

クリストフォリのピアノは、彼の生存中にはイタリアではほとんど注目を浴びませんでした。
その後20世紀の後半になるまで、イタリアがピアノ製作の分野に大きく関わることはありませんでした。

ゴットフリート・ジルバーマンとJ.S.バッハ


ゴットフリート・ジルバーマンはドイツのオルガン製作者で、オルガン制作の傍らチェンバロ、クラヴィコード、フォルテピアノの制作にも携わっています。
当時、クリストフォリのピアノのアクションに関するマッフェイの論文がドイツ語に翻訳され音楽評論誌に掲載されたこともあり、触発されたのであろうジルバーマンは、1730年代半ばにフォルテピアノの制作を手がけています。

ジルバーマン初期のピアノは1730年代に製作されており、その音色を聴いたバッハは音を高く評価したもののタッチが重いことと高音が弱いことを指摘しています。
ジルバーマンは落胆したものの意欲を失うことなくピアノを作り続けます。それから10年後、ハンマー・アクションの改良に努めた結果1740年代にはジルバーマンのピアノは高い評価を得るようになり、ポツダムのフリードリヒ大王は15台のピアノ製作を依頼します。

ベルリンの宮殿ではバッハの次男、エマヌエルがチェンバロ奏者として奉職していました。1747年、大王の招待を受け、次男のもとに生まれた孫の顔を見たかった老バッハはポツダムを訪れます。

ジルバーマンが製作したピアノフォルテを気に入り、15台も集めていたフリードリヒ大王は、宮殿に伺候した老バッハに宮殿のいくつもの部屋に置かれたピアノフォルテを試奏させます。
バッハがピアノフォルテを弾いたのはこのときただ一度だけでした。今でもサン・スーシ宮殿の音楽室にはジルバーマンのピアノとトラベルソ(当時のフルート)が置かれています。

イギリスのピアノ製作

ツンペのスクエアピアノ


ピアノの技術革新の大きな節目となるのが、1753年のジルバーマンの死とドイツで勃発した七年戦争です。
ジルバーマンの師弟であるヨハネス・ツンペは、戦争の動乱を避けて1760年にロンドンへ渡り、チェンバロ製作者のバーカト・シュディの工房に入ります。

ツンペはクリストフォリとジルバーマンのピアノ・アクションをより単純化し、ハンマード・ダルシマーという打弦楽器から発想を得たアクションを開発。クラヴィコードの形に立ち戻ってスクエア型のピアノを製作します。このときに使われている発音機構が、イギリス式シングル・アクションと呼ばれる近代的なピアノの基礎となるものでした。

ツンペが開発したアクションは、ロンドンの商社ロングマン&ブロドリップに雇われていたドイツ人、ジョン・ガイプの手によってエスケープメントが加えられ、イングリッシュ・ダブル・アクションとして1786年に特許を取得します。このアクションは、より高価なスクエア・ピアノに使用されるようになりました。

1768年、大バッハ(J.S.バッハ)の末息子であるJ.C.バッハが初めてイギリスで行われたコンサートでの演奏で、スクエア・ピアノを使用したことがきっかけになり、一気にこのピアノに対する名声が高まります。
スクエアピアノは制作費がチェンバロより格段に安価だったことに加え、こじんまりとしてイギリス人の家具の趣味に合うようにデザインされていたものだったこともあり、18世紀後半のイギリスで大流行しました。

しかし、1870年代になるとグランドピアノによるコンサート・ツアーが行われるようになり、さらに従来のピアノに代わる竪型ピアノの開発が進んだこともあって、スクエア・ピアノの人気にも陰りが見え始めます。
そして1903年、アメリカのピアノ製造業者の団体が直面する財政危機を世間に知らしめるため、15メートルの高さに火を付けたことにより、スクエア・ピアノの終焉が劇的に告げられることとなりました。

ブロードウッドのグランド・ピアノ

スコットランド人のジョン・ブロードウッドは、チェンバロ製作者であるバーカット・シュディの元で働いた後に工房を継承し、シュディ・アンド・ブロードウッドと工房名を改め、アメリクス・バッカースとロバート・ストダートと共に、スクエア・ピアノの共同製作を始めます。

1772年、バッカースはイギリスのチェンバロに外見を似せて、クリストフォリ系統の翼型ピアノ・フォルテを設計します。
バッカーズが設計したピアノは、アーチ型の響板を用い、太い3本弦を張り、細くて硬いハンマーヘッドで高音弦のかなり端に近いところを打つという特徴があります。また、操作しにくい膝レバーに代わり足元にダンパーペダル・ソフトペダルを導入します。

バッカースの設計したアクションはイギリス式グランド・アクションと呼ばれ、バッカースが開発したアクションは1777年にストダートがイギリス式グランドアクションの特許を申請し、「グランドピアノ」という言葉が用いられるようになります。そして、ジョン・ブロードウッドが最初のグランド型ピアノを1778年に完成させます。

1795年、息子の息子のジェームスがピアノ製作に加わった際にシュディ・アンド・ブロードウッドからブロードウッド・アンド・サンズと改められて今日に至ります。

ウィーンのピアノ製作

シュタイン

ヨハン・アンドレアス・シュタインは、ドイツのアウグスブルグのオルガン製作者です。ストラスブルグでゴットフリート・ジルバーマンの甥であるヨハン・アンドレウス・ジルバーマンの元でオルガン製作を学んだ後にアウグスブルグに戻ってピアノ制作を始めました。

スタインは、バイエルンの職人たちが開発したプレメルヒャーリク(突き上げアクション)に彼独自のエスケープ機構を備えた非常に弾きやすいピアノを開発します。このピアノは、現代のコンサートグランドピアノの約10分の1の重量しかなく、すべての音は2本弦になっています。
アクションは、ビークと呼ばれるハンマーの最後尾が下向きの力に働くエスケープメントに引っかかり、ハンマーが跳ね上がって弦を打ちます。鍵盤のタッチは現代ピアノの半分の深さで、より軽く俊敏なタッチでよりダイレクトな演奏が可能になりました。

ペダルに関しては、ダンパーは付いていましたがペダルではなくアッパー・ダンパー(上部消音器)という消音効果の悪いものでした。しかし、初期のピアノは音量もそれほど大きくなく響板の効果も小さいものだったため、消音効果もそれなりに一つの役割を果たしていたものと思われます。

スタインのピアノとモーツァルト


1777年、当時21歳のモーツァルトは、職を求めてザルツブルグから西へと旅をしていました。父親の故郷であるアウグスブルグに滞在した際にスタインのピアノを弾いて感激し、そのときのことを父へ宛てた手紙の中で次のように書いています。

「シュタインの仕事を見るまでは、(南独レーゲンスブルグのピアノ製作者)シュペートのクラヴィーアを一番気に入っていました。しかし今ではシュタインのほうが優れていると言わざるを得ません。というのも、レーゲンスブルクの楽器よりもずっとダンパーの抑えが効くからです。強く鍵盤を叩くと、指を残しておこうが離そうが、音を鳴らした瞬間にその音は消えてしまい、しかもはっきりと聴き取ることができません。
〜中略〜
彼の楽器が他と比べて特に優れている点は、エスケープメントが付けられていることです。けれども、エスケープメントなしのピアノ・フォルテでは鍵盤を叩いたあとに雑音が出たり音が残って震えたりしないようにはできません。彼の楽器では、鍵盤を叩くとそのまま押さえていようと離そうと、ハンマーは弦を打ったあと、すぐに落下するのです。」

シュタインのフォルテピアノがモーツアルトに与えた印象は大きく、彼はこの地で自分のソナタを何度も演奏しています。しかし、モーツァルトが自分自身のピアノを手に入れたのは晩年になってからのことです。
1782年から1785年の間に、モーツァルトはアントン・ヴァルターが製作したフォルテピアノを手に入れます。この楽器は、音域が5オクターブで、2つの膝レバーがありました。
これは、モーツァルトが所有した唯一のピアノフォルテでした。

イギリス式グランドアクションとウィーン式アクションの違い

イギリス式アクション
イギリス式は、突き上げ式のハンマーアクションです。音が持続し豊かさがあり重厚な和音を奏でるのに適していますが、タッチは重く、鍵盤が深く沈むために連打音においてハンマーの反応が悪いという欠点があります。

ウィーン式アクション
ウィーン式は跳ね上げ式のハンマーアクションです。
ウィーン式アクションのピアノは、クラヴィコードの音を大きくしたようなもので明るく澄んだ響きと歌う音色に特徴があります。様々なニュアンスでの演奏が可能でき、繊細な装飾音も明確に出すことができます。
現代のピアノで使われているフェルト製の大きなハンマーと比べるとえんどう豆のように小さく、木の外側にシカのなめし革が使われています。ハンマーの材質も軽いものを使用し、できるだけ軽くする工夫がされていました。打鍵に必要な力は、現代ピアノの80gに対し、わずか30gほどでした。

ピアノの発展

ピアノが誕生した当時、バロック時代の代表的な音楽の場は教会、劇場、サロンであり、音楽だけを聴きに行くところではありませんでした。
教会にはミサなどの宗教儀式に参加するために、劇場にはオペラやバレエを見るために、サロンには社交や宴会を楽しむために行くわけで、音楽はいわばBGMでした。
その場にふさわしい音楽が要求され、音楽の形式や楽器の用いられ方もそれぞれの音楽の場によって異なっていました。

サロンに置かれるチェンバロは、見事な装飾を施した家具、調度品で、音楽の形式としても機知に富んだ名前をつけた小品や、宮廷で踊られる舞曲を並べた組曲が人気でした。

ピアノは、「最新式のちょっと変わったチェンバロ」として貴族の客間、サロンに登場しました。
サロンでは、楽器は一段高い舞台に置かれたのではなく、広間の壁を背にして置かれ、参加者は楽器を取り囲むようにしてごく近くで音楽を楽しみました。

その後、19世紀以降のピアノの発展は「コンサート(音楽会)」の広がりと深く関わっています。
「音楽の場」は教会やサロンではなく、移民のホールに移り、多数雨の聴衆を前にしてオーケストラと協奏曲を弾くことのできる楽器が求められていくようになります。

次回は19世紀です。
次回のお話: ピアノの誕生とその歴史を知る〜第2回【19世紀】

参考文献

大宮眞琴(2009) 『新版ピアノの歴史 楽器の変遷と音楽家の話』 音楽之友社
伊東信宏 編(2007) 『ピアノはいつピアノになったか?』 大阪大学出版会
斎藤信哉(2007) 『ピアノはなぜ黒いのか?』 幻冬舎
西原稔(2013) 『ピアノの誕生・増補版』 青弓社
北川恒二(1982) 『ピアノ常識入門』 音楽之友社
ヘレン・ライス・ホリス(1988) 『ピアノ 誕生とその歴史』 音楽之友社
小倉貴久子(2009) 『カラー図解 ピアノの歴史』
ジョン=ポール・ウィリアムズ(2016) 『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』 ヤマハミュージックメディア
「音楽を読む本」編集委員会(1994) 『ピアノを読む本 もっと知りたいピアノのはなし』 ヤマハミュージックメディア



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