そらいろくらげが浮き輪で海に浮いているイラスト

ピアノの誕生とその歴史を知る〜第2回【19世紀】

夏休みの自由研究課題としてピアノの歴史を調べるお話の第2回です。

今回は、19世紀のピアノまでの歴史を追っていきます。

前回のお話: ピアノの誕生とその歴史を知る〜第1回【紀元前から18世紀まで】

もともとは王族や貴族社会の中で発達を遂げてきたピアノは、やがてフランス革命により王族、貴族が没落すると、ピアノ音楽は一般市民のものになっていきます。
18世紀後半以降、演奏される場は貴族たちのサロンからコンサートホールへと代わり、より大きな音量で力強くフォルテッシモの表現のできる演奏が作曲家や演奏家から望まれただけでなく、より大きなコンサートホールやオーケストラのために必要とされます。

ピアノ製作の場も、小さな工房から大規模な工場での生産へと移り、イギリスで起こった産業革命以降に大きく発展した工業技術を取り入れたことにより、頑丈で大きなピアノ製作へと変化していきます。

また、ピアノの可能性が実現されていくにつれ、作曲家や演奏家はピアノに多くの要求をしていきます。
さまざまな要求に答えていった結果、まず弦の張力が増され、アクションは絶えず改良が加えられていきます。響板に関しても、種々の木材が厚さや木目の方向とともに試され、弦はより大きな弾性を得るための被覆や固定方法の実験がされていきました。

フランスのピアノの製作

エラールのダブル・エスケープメント・アクション

フランス人、セバスティアン・エラールはパリでチェンバロ及びハープ製作者として働いていました。彼が最初に手掛けたピアノはスクエア・ピアノで、当時のフランスですでに普及していたツンペの楽器使われていたイギリス式のアクションを採用していました。1777年には自身の工房と弟とともにエラール社を設立し、フォルテピアノの製作を手がけます。

しかし、フランス革命が勃発するとエラールはパリからロンドンへ渡り、1792年にピアノとハープの製作所を持つロンドン支店を開設します。数々のピアノ製作を学んだ後、フランスが落ち着きを取り戻した1796年にパリへ戻るとグランドピアノの製作を手がけます。
その後数々の改良や発明を行い、エラール社はピアノ進歩に大きく貢献を果たします。1803年にはベートーヴェンに1台のピアノを進呈しています。このピアノは、現存しているベートーヴェンの3台のピアノのうちの最初の1台です。

1808年、エラールはアグラフという真鍮の鋲の特許を取得します。アグラフによって弦のスピーキングレングス(ある音の高さに対する弦の長さのこと)が正確に決まり、また弦がハンマーに叩かれて浮き上がることを防ぐようになり調律の安定度が高まりました。
1822年、1808年の特許をさらに発展させた「2重エスケープメント機構」を発明し、特許を取得します。

エラールはウィーン式とイギリス式の両方のアクションを熟知しており、イギリス式の安定性と堅牢性、ウィーン式の繊細な応答性を結びつけようと試みます。
エラールの設計は、早い連打が楽にできるようになっただけでなく軽さと確実性も評価されており、ピアノ演奏法だけでなくピアノ作品の可能性を大きく広げることになりました。

パープのフェルトのハンマー


18世紀から19世紀初めにかけて製作されていたピアノのハンマーは、木の芯に皮や布を巻き付けたものでした。ウィーンのハンマーは羊や鹿の皮を巻いており、ウィーンのピアノは固い乾いた響きをしていました。イギリス式は
綿か羊毛と木綿を混紡したものを巻いており、イギリス式のピアノ特有のピアノの音量が豊かな一因となっていました。

1809年、ドイツ出身のアンリ・パープは、パリのプレイエルの工場で働きながら何度もイギリスに赴き、ピアノ製作を学んでいました。1815年に自分の工場を持つと、イギリス式のピアノをもとに製作を始めます。
アンリ・パープはなめし革の代わりにウサギと子羊の毛を使った高密度なフェルトで覆ったハンマーを開発し、特許を取得します。結果、このフェルトを巻いたハンマーは次々にピアノ・メーカーに採用されることとなり、クリストフォリ以来のピアノの音色が変わる決定打となりました。

その後、ハンマー自体も次第に大きくなっていき、19世紀初頭のころと比べると現代ピアノのハンマーは幅も大きさも二倍近く大きくなっています。大きくなったハンマーは、叩き上げる力を増大させピアノの音量に大きく貢献することになりました。

プレイエル・ピアノ

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イグナス・プレイエルは、自身の名を付けたフランスのピアノメーカーの創始者です。プレイエルは、オーストリア生まれの音楽家で、若い頃はハイドンの元で作曲を学んでいました。ピアノ生産事業を手掛けたのは1807年頃のことです。プレイエル自身はピアノ製作の専門家ではありませんでしたが、ピアノ事業の初期にはアンリ・パープの助力を得ることができました。パープが何度もイギリスに赴いてピアノ製作の技術を学ぶことができたのは、プレイエルの資金援助があったからこそできたことでした。

その後、息子のカミーユ・プレイエルが事業を受け継ぎます。カミーユは作曲家、ピアニストとして才能を持っていましたがピアノ製作に没頭し、ブロードウッド、コラード、クレメンティに製作技術を教わります。カミーユはショパンに惚れ込み、祖国の復活を願って演奏活動をするショパンに最大級の支援をし、ショパンもまたパリでプレイエルのピアノに出会って以来生涯に渡りプレイエルピアノを弾き続けました。

エラールとプレイエルは、19世紀前半のフランスのピアノ・メーカーとして相競います。1834年頃の年間生産台数は1000台に達し、1870年代からは生産台数2500台を維持していたプレイエルですが、19世紀末ごろになると衰退の時期を迎えます。
このときより少し前からアメリカのメーカーが産業界において話題になり、ピアニストたちは好んでドイツやアメリカのピアノを弾くようになっていました。

ウィーン式ピアノの繁栄と衰退

Photo credit: kkmarais via Visual hunt / CC BY


1800年代の20年間、ウィーンはヨーロッパでのピアノの主要な生産地でした。1815年頃には100以上のものピアノ製作を行う工房があったと言われています。

ヨハン・アンドレアス・シュタインの娘のナネッテは、1792年に父が没したあと弟のマテウス・アンドレウスと一緒に父の工房を継ぎます。のちに作曲家のヨハン・アンドレアス・シュトライヒャーと結婚し、弟とピアノ製作をしたのちに単独で製作を開始します。ナネッテ・シュトライヒャーのピアノは、ウェーバーやベートー・ヴェンに気に入られ、声価を高めます。
ナネッテの事業は息子のヨハンによって継続され、1859年からはヨハンの息子エミールが共同してウィーン式アクションのピアノを作り続けましたが、1896年に事業を閉鎖します。

一方、ナネッテの弟マテウス・アンドレウス・シュタインは、1802年から独立してアンドレ・シュタインの名でピアノ製作を始めます。
その息子カールは父のピアノ製作を継承し、1844年にはウィーンの宮廷ピアノ製作者に任命されますが、1871年、ウィーンのシュタイン・ピアノは事業を閉鎖します。

ベートーヴェンの最後のピアノを製作したコンラッド・グラーフは、1804年からピアノ製作を始めます。その製造技術が認められ、1824年に王室ピアノ・鍵盤楽器製作者というタイトルを獲得します。1840年には女流ピアニストとして名高かったクララ・ヴィークがシューマンと結婚したときにピアノを贈りました。

ウィーンの職人イグナーツ・ベーゼンドルファーは、19歳のときにオルガン製造者のヨーゼフ・ブロトマンに弟子入りしたあと1828年に工房を買い取ると会社を設立します。ベーゼンドルファーのピアノは、その後多くの改良を咥えてウィーンを代表するピアノとなり、高品質、高水準で素晴らしい名声を得ました。1830年には王室御用達のタイトルを獲得します。

1800年ごろのウィーンのピアノは5オクターブほどでしたが、その後ゆっくりと高音域が拡大していきます。しかし、ウィーンのピアノにとって音域の拡大は重大な困難をもたらすことになります。
弦の張力に耐えしかも音量を増加させるという相反する要求を叶えるためにはフレームの強化が必要なのですが、フレームの強化についてはウィーンはイギリスやフランスからずっと遅れている状態でした。

19世紀後半にはダイナミックなヴィルトゥオーゾ的演奏スタイルが時代を席巻するようになり、モーツァルトからブラームスにまで愛好されたウィーン式のアクションのピアノは時代の要求に答えられなくなってしまいます。
その後も、ウィーン式アクションはオーストリアのメーカーで一般的に製作されていましたが、1908年にはベーゼンドルファーがウィーン式アクションのピアノ製作を取り止めます。
やがて、パリのセバスティン・エラールが考案したダブル・エスケープメント・アクションを多くのメーカーが用いるようになると徐々に衰退していきました。

アメリカのピアノ製作

ピアノの歴史の中で、最後に決定的な改良を加えることになったのはアメリカでした。アメリカ合衆国でピアノ工業が始まったのは、独立戦争後数年経ってからのことです。
ロンドン製のピアノが数多く輸入されていた中で、19世紀初頭には多くのピアノ・メーカーの創立が見られました。当初はイギリス製スクエア・ピアノの複製にほかなりませんでしたが、アメリカ製ピアノが輸入ピアノと競えるようになるまでそう長くはかかりませんでした。

金属フレームの出現


ピアノの音域を拡大し、音量を増加させることは19世紀のピアノにとって宿命的なものでした。
音域の拡大は、高音と低音の両方に向かって弦の数を増やしていくことによって得ることができます。しかし、弦の数を増加させるには弦を張るフレームを強化し、音量を増大させるためにユニゾンの弦も増やさなくてはなりません。
18世紀のピアノは全体がほとんど木でできており、金属の支柱はレストプランクと他のフレームとの間にしか使われていませんでした。そこで、まず増大のする弦の張力を支えるフレームをいかに強化するかということが課題となっていました。

1800年、イギリス人のエンジニアのアイザック・ホーキンスはアメリカのフィラデルフィアに移住すると、響板を支持する独立した鉄製フレームを持つアップライトピアノを考案します。しかし、当時の音楽家や製作者にとって、楽器に金属フレームを多く使うというのは忌み嫌われ、また音が小さいという問題もあり挫折してしまいます。
26年後、ホーキンスは鉄骨フレームに加えてハンマーアクションを大幅に改良します。アクションが円滑に打ち込まれるための金属製センターピンやピンが打ち込まれるフェルト製ブッシングなどを考案し、アップライトピアノの基礎を確立させます。

1825年、ボストンのボイラー工場を経営していたアルヒューズ・バブコックは、スクエア・ピアノの製作においてヒッチピン・ブロックと一体になった鋳造のメタルフレームを発明します。小型のスクエア・ピアノとは言え全体にまったく継ぎ目のないフレームを作ることができた背景には、当時のアメリカの冶金工業の進歩した技術がありました。そして、このパブリックの画期的な考案によって、その後のピアノ製作は大きく変化していきます。

鋼製弦とダイヤモンドダイス


パブコックの鋳鉄フレームが出現する数年前、1819年に鋼線を作るためのダイヤモンド・ダイスが発明されます。ダイスとは抜き型のことで、線材料をダイス孔に通しながら引き抜くことで希望の穴径に仕上げることができます。仕上げのダイスにダイヤモンドを使用することで、超硬製のものに比べ切れ味が落ちず、精度の高い鋼線に仕上げることができます。

ハープシコードやクラヴィコード、初期のピアノにはガット線(羊腸)、鉄線あるいは真鍮線が使用されていました。これらの弦はそう強くは張れないためハープシコードやクラヴィコードの音は非常に小さく、初期のピアノも大した音量は出ませんでした。しかし、ダイヤモンド・ダイスの登場によって1835年に鋼線弦が出現したことにより、ピアノの一台革命となりました。

ジョナス・チッカリング

1840年、ボストンで工房を開いていたジョナス・チッカリングは、それまでアメリカでは興味が惹かれなかったグランド・ピアノの最初の一台を製作します。さらに3年後の1843年には、それまでスクエア・ピアノで成功していた一体型の鋳鉄製フレームをグランド用に改良します。

鋳鉄製の堅牢なフレームによってピアノの中心部が強化された一方で、弦の響きを減少させるという欠点も生じましたが、太い弦を使うことによって解消されます。また、堅牢なフレームのお陰で弦の張力は1850年頃には12トンにまでテンションを掛けることが可能になり、音量を増加させることに成功します。
19世紀の後半には息子たちが事業を拡大し、チッカリングのピアノは1867年のパリ万国博覧会では金賞を獲得し、センセーションを巻き起こしました。

スタインウェイ・アンド・サンズ

Photo credit: jnshaumeyer via Visualhunt.com / CC BY-NC-SA

ドイツのハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェークは、ゼーゼンでオルガン製作者兼オルガニストの弟子として勤める傍らで、1836年に余暇の仕事として台所で1台のピアノを作りました。このピアノが初めてスタインウェイのピアノと言われています。
シュタインヴェークはオルガンの修理と調律の仕事で成功し、1839年にはブラウンシュヴァイクの見本市で1台のグランド・ピアノと2台のスクエア・ピアノを出品し、入選を果たします。

しかし、ドイツが右傾化してくると積極的に活動していた次男カールが投獄されるか殺されるかという恐れが出てきたため、アメリカに送り市場調査させたのち4人の息子を連れて1849年にゼーゼンを離れニューヨークへ移住します。
一家はニューヨークの別々のピアノ工場で働きながら英語を勉強し、名字を英語風の読み方のスタインウェイに変更し、息子たちはそれぞれファーストネームも変えます。

スタインウェイ一家はやがてスタインウェイ・アンド・サンズを設立し、1853年からスクエア・ピアノの製作を始めます。1855年にはアメリカ工業博覧会に鋳鉄のフレームに交叉弦を張ったスクエア・ピアノを出品し、センセーションを巻き起こします。1859年にはグランド・ピアノの製作に着手し、1863年にはアップライト・ピアノを同じ博覧会に出品しました。
事業が急成長を遂げたスタインウェイ社は、マンハッタンに向上を建設し、最初の20年間で年間2000台を生産するほどにまで成長します。

一方、長男テオドールはゼーゼンに残り、ブラウンシュバイクでピアノ製作を継続し、1858年にグロトリアンと提携してグロトリアン・シュタインヴァークと改称します。1865年、次男チャールズと三男ヘンリー・ジュニアが相次いで亡くなると、テオドールはドイツ工場の権利をフリードリッヒ・グロトリアンに譲渡し、ニューヨークの一家と合流するとともに製作に携わります。

また、経営面においては末弟のウィリアム・スタインウェイが采配を振るうとともに、スタインウェイ&サンズの名は広く知れ渡るようになります。
ウィリアムは音楽そのものに興味を持ち、自らもピアノを弾いていたため、有名な音楽家や裕福な愛好家たちとも交流がありました。その結果、スタインウェイ・ピアノが卓越しており、信頼できるといういうイメージをピアノ専門家たちの間に植え付けることに成功しました。

また、ヨーロッパにおいても1862年にはロンドンの博覧会で金賞を獲得し、1867年のパリの万国博覧会ではチッカリングと並んで金賞を獲得しました。このとき、チッカリング・ピアノが平行弦を用いていたのに対しスタインウェイはすでに交叉弦を採用していたため、この受賞をキッカケに、ドイツメーカーたちがスタインウェイ・システムを採用し、1873年のウィーンの万国博覧会で評判となりました。

1880年、長男のテオドールはドイツに帰国しハンブルグに工場を設立します。ニューヨークとハンブルグの工場では何世代もの間、同じ基準で同じ型の設計に基づいて製造していますが、両者は異なる風合いの性質を持つようになります。ハンブルク生まれの方が暖かく、甘く、粒の揃った音を出すと言われています。

スタインウェイ・ピアノはアメリカのピアノ製作のリーダーとなっただけでなく、ヨーロッパのピアノの伝統を根底からくつがえす影響力を持つようになりました。20世紀の初めには世界のピアノの半分がアメリカ製となりました。
1903年には10万台目のピアノが生産され、その成功の歴史の50周年を記念してホワイトハウスに寄贈されました。

その後の経営は順風満帆とは行かず、1972年にCBSに会社を売却し、その後1985年にスタインウェイ・ミュージカル・プロパティーズ・インコーポレイテッドに売却されました。
1995年には全国の総販売台数が9万4044台にまで落ち込み、セルマー・インダストリーズの傘下に入ります。生産工程の合理化のためピアノ製造業以外からの技術者が雇われるようになりましたが、それによってピアノの設計に変更が咥えられることはありませんでした。

19世紀後半のピアノの革新

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19世紀後半のアメリカで、スタインウェイ・ピアノがおこなった数々の技術革新は、新しい近代ピアノを確立させることになります。鋳鉄製フレーム、レペティション・アクション、テーパー状のフェルト・ハンマー・カバーが普及し、19世紀が終わるまでには鍵盤の音域は7オクターブと短3度が一般的となりました。
同時に伝統に執着したメーカーは淘汰され、意欲に満ちたメーカーたちはその名声によりかかって満足することなく新技術を積極的に取り入れ、理想のピアノを目指して新しい時代をリードするようになっていきます。

イギリスのブロードウッドは1820年代にはスクエア・ピアノを1000台、グランド・ピアノを400台という年間生産を保っていました。弦の張力の増加に耐える工夫を行い、19世紀中頃には年間2500台を生産して絶頂を保っていましたが、工場の機械化を怠り職人芸に頼っていたため、生産量が落ちたばかりか工賃も高騰し、衰退の一途を辿ります。

フランスでは、セバスティアン・エラールが1822年にダブル・エスケープメントを考案し、19世紀中頃までは多くのピアニストに愛好されていました。しかし、19世紀後半になると国際的なピアニストはアメリカやドイツで生産されるようになった新設計の堅牢な楽器を好むようになり、「弱い薄い音」のエラールややがて顧みられなくなっていきます。
19世紀半ばにはパリで1500台、ロンドンで1000台の生産量を誇りましたが、国外の市場はしだいに壊滅状態に陥り、1890年にはロンドン工場を閉鎖。1960年になると、エラール・ピアノはガヴォールに買収されてその歴史に幕を閉じました。

一方ドイツでは、カール・ベヒシュタインがプレイエルやベロー、パープ、クリーゲルシュタインといった19世紀の有名な会社で見習い修行をしたのち、1853年にベルリンでピアノ製作を始めます。
ベヒシュタインは工場を機械化し、スタインウェイの先進的な技術を積極的に取り入れます。1870年にはアメリカで用いられた交叉弦とイギリス式ピアノの力強い音色、そしてフランスメーカーの早い連打機構を取り入れ、1862年にはロンドンの博覧会で金賞、1867年にはパリの博覧会で銀賞を受賞するほどの楽器を作り上げました。

1867年にはベヒシュタインのピアノの品質は最上級とみなされ、1869年代の年間生産量は300台に対し1870年代には1000台、1890年代には3000台の生産量にまで達します。
ベルリン工場は第二次世界大戦中に破壊され、材料や製造機械もろとも壊滅状態に陥りましたが、1951年になって生産を再開し、コンサート・グランドは往年の名声を回復します。

オーストリアでは、ベーゼンドルファー・ピアノが新技術を大胆に取り入れて19世紀後半の激動期をくぐり抜け、現在も声価を保ち続けています。
ベーゼンドルファーは1828年に師匠であるオルガン製造者のヨーゼフ・ブロトマンから工房を買い取ると会社を設立します。1859年には息子のルートヴィッヒがあとを継ぎ、翌年には新工場へ移転しウィーン式アクションを改良します。ルートヴィッヒは1900年から1910年にかけて劇的な改革を行い、ウィーン式アクションから素早い連打が可能なイギリス式へと変更します。その結果、ベーゼンドルファーはウィーンのピアノのタッチを受け継ぐ美しく澄んだ音色はリストやドビュッシーなど多くの音楽家に愛されました。

アップライト・ピアノ


現存する最初のアップライト・ピアノは、1739年にイタリア・フィレンチェの楽器製作者であるドメニコ・デル・メーラが製作したものです。この楽器は鍵盤を下にして、グランド・ピアノを建てたような形をしています。
18世紀にの終わりには、キリンのような形をしたジラフ・ピアノに似た縦型ピアノも誕生しています。
イギリスでは、率先してアップライト・ピアノを開発する動きがいくつも見られました。1795年にはウィリアム・ストダートが「アップライト・グランド」を発売し、1798年にはウィリアム・サウスウェルがロンドンの店でグランド・ピアノの側面を下にして立てたようなスクエア・ピアノを開発しました。
しかし、これらの楽器は、それなりに関心を引いたものの背の高さが災いして、将来の展望を開くことができませんでした。

一方、19世紀のフランスではパリの建築家が小さなアパルトマンを建設するようになり、その狭いスペースにグランド・ピアノやスクエア・ピアノを置くのが困難になり、アップライト・ピアノの人気が高まります。
プレイエルは、ロバート・ワーナムのコテージ・ピアノとジャン・アンリ・パープが1828年に取得した特許に基づいて「ピアニーノ」というアップライト・ピアノを製造します。パリの建築の流行はドイツやイギリスにも広まり、1830年代までにヨーロッパの家庭用ピアノの市場は、スクエア・ピアノからアップライト・ピアノへと変化します。

アメリカでは、いち早くスタンウェイ・アンド・サンズがアップライト・ピアノに対するビジネスチャンスを見出し、都市の人口増加によってボールドウィンやキンボールなどもメーカーも生産に乗り出します。
アップライト・ピアノは生産コストが低かったため、20世紀に入るまでに、グランド・ピアノに代わる唯一の楽器として決定づけられました。

次回は最終回、20世紀のお話です。
次のお話: ピアノの誕生とその歴史を知る〜第3回【20世紀】

参考文献

大宮眞琴(2009) 『新版ピアノの歴史 楽器の変遷と音楽家の話』 音楽之友社
伊東信宏 編(2007) 『ピアノはいつピアノになったか?』 大阪大学出版会
斎藤信哉(2007) 『ピアノはなぜ黒いのか?』 幻冬舎
西原稔(2013) 『ピアノの誕生・増補版』 青弓社
北川恒二(1982) 『ピアノ常識入門』 音楽之友社
ヘレン・ライス・ホリス(1988) 『ピアノ 誕生とその歴史』 音楽之友社
小倉貴久子(2009) 『カラー図解 ピアノの歴史』
ジョン=ポール・ウィリアムズ(2016) 『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』 ヤマハミュージックメディア
「音楽を読む本」編集委員会(1994) 『ピアノを読む本 もっと知りたいピアノのはなし』 ヤマハミュージックメディア



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