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国産ピアノの誕生と知られざる日本のピアノメーカーのお話  

現代の日本では、日本古来の楽器よりも西洋の楽器であるピアノのほうがより身近な楽器として生活だけでなく教育にも浸透しています。今も昔も習い事の定番といえばピアノのレッスンであり、やがて邪魔な置物となる宿命を背負いながらも、一昔前はどこの家庭にも一台は必ずといっていいほどピアノが置いてあったように思います。

なぜ、ここまで日本にここまでピアノという楽器が馴染んだのか、夏休みの自由研究課題第二弾として探ってみたいと思います。

音楽教育とピアノ

伊沢修二とメーソン

日本でのピアノの普及は、音楽教育と密接な関係があります。

1872年、明治新政府が初等・中等の学制を公布しますが、音楽の教科だけは教材を用意することができず、「当分之を欠く」とされました。
音楽教科の準備のために文部省直属の音楽取調掛が設置されたのは、それから7年後の1872年のことです。
中心人物となったのは、愛知師範学校の校長であった伊沢修二です。
彼は1875年にアメリカへ留学し、音楽教師であるL.W.メーソンのもとで音楽の指導を受けます。

音楽教育の重要性を認識した彼は、帰国後音楽取調掛の御用掛長に就任、さらに改組して東京音楽学校となった初代の校長へ就任します。
その後、留学時代に師事したメーソンが来日し、音楽教育の基礎を築きます。

メーソンが来日した1880年4月、東京師範附属学校小学校および東京女子師範学校附属幼稚園で唱歌教育を開始、同年9月には伝習生30人が公募され、22人が音楽取調掛に採用されました。

バイエルとピアノの輸入

ピアノを習ったことならご存知の「バイエル」という教本は、メーソン来日時にピアノ11台とともに20冊の『バイエル教則本』が持ち込まれました。日本で最初のピアノ教育を受けた伝習生たちは、卒業後には指導者としてバイエルを全国に広めていきます。バイエルで育った人たちが教師になるとまたバイエルが用いられ、以降100年にわたって繰り返されていた結果、しっかりと日本全国に根付くことになったのです。

バイエルはドイツの作曲家の名前で、正しくはフェルディナンド・バイヤーと言います。
有名でありながら、あまり知られていない作曲家です。

1803~1863 ドイツ人 作曲家 ピアニスト 音楽教育者
バイエルは19世紀にドイツで活躍した作曲家、ピアニスト、ピアノ教師である。日本ではいわゆる「バイエル・ピアノ教則本」の作者として知られている。バイエルの生涯については、1803年にザクセン地方のクヴェアフルトで生まれ、1863年にマインツで没したということ以外、ほとんど伝わっていない。バイエルは、ピアノ用小品の作曲や、人気の高い管弦楽曲やオペラのアリアなどのピアノ用編曲で知られていたという。しかし現在では、作品101の「ピアノ奏法入門書」、すなわち「バイエル・ピアノ教則本」以外の作品は忘れ去られている。しかもこの教則本が現在も使用されているのは、日本と韓国にほぼ限られている。バイエルの「ピアノ奏法入門書」は、1850年頃、最初に出版されたもので、1880(明治13)年に、アメリカの音楽教育者であるルーサー・ホワイティング・メーソンによって日本にもたらされた。メーソンは、文部省の音楽教育機関として設置されたばかりの音楽取調掛に、指導者として招かれたのであった。このとき輸入された「バイエル・ピアノ教則本」は20冊だったという。日本における公的なピアノ教育は、この教則本とともに始まったのであった。(参考資料:『ニューグローヴ世界音楽大辞典』 講談社)
YAMAHA 楽器解体全書 フェルディナント・バイエル

ただ、近年ではバイエルは敬遠されるようになり、もっぱらチェルニーのほうが利用されているようです。

日本のピアノ誕生の歴史

山葉寅楠

Photo credit: MIKI Yoshihito. (#mikiyoshihito) via VisualHunt / CC BY


山葉寅楠は、日本楽器(現ヤマハ株式会社)の創設者で、和歌山藩士の三男として江戸に産まれました。
寅楠は長崎で学んだ医療器具や時計の職人でしたが、あるとき浜松尋常小学校所有のアメリカ製オルガンが故障した際に修理したことがキッカケで楽器制作に興味を持ち、オルガンの試作をします。

最初のオルガンは、山葉自身が音律を知らなかったため散々なものでした。しかし、音楽取調掛で音楽理論と調律を学んだあと、1887年に浜松へ戻り、二台目を制作。今度は舶来品に代わり得るオルガンとして認められたのです。

やがて1889年には山葉風琴製作所が設立し、足踏み小型オルガンの制作を開始します。小学校での音楽教育の開始時期でもあり、国産オルガンの注文は増加。従業員も100名に達し、1889年には250台のオルガンを生産するまでに至ります。
やがて1897年には多くの資本家の出資を得て、日本楽器製造株式会社を設立するに至ります。

河合小市

河合小市は、河合楽器製作所の創始者です。
山葉風琴製作所が日本楽器製造株式会社となる一年前、1896年に山葉寅楠のもとへ弟子入りします。
弟子入りしたころはまだ11歳でしたが、手先が器用で研究熱心だったため山葉に重宝され、オルガン製作の技術を身に着けたあとは師匠の片腕となって技術開発に励みました。

そして1900年、河合の研究したアクションを元に、国産アップライト・ピアノ第一号を完成させました。
この前年、山葉寅楠はピアノ製造方法の研究のために渡米しますが、ピアノの最も重要であるアクション(打鍵するとハンマーが弦を叩く機構)の製作に関しては収穫がありませんでした。
山葉が留学している間、河合小市は浜松で研究に励み、アップライト・ピアノのアクションを完成させます。
1902年には日本で最初のグランド・ピアノを完成させました。
1904(明治37)年には、セントルイスで開催された米国大博覧会にオルガンとピアノを出品し、名誉大賞を受賞します。国産の楽器が海外で受賞したのはこれが初めてのことでした。

ヤマハ


順調に事業を拡大させていった楠寅は1916年(大正5年)に64歳で他界し、副社長だった天野千代丸が跡を継ぎます。天野は経験と勘に頼る従来のピアノ製造に科学のメスを入れ、1930年には世界に先駆けて音響実験室を設立します。
ヤマハの事業は順調に拡大し、1926年にはドイツのベヒシュタイン社から技師を招いて技術指導を受けるようになります。しかし、この年に4月26日から8月8日まで105日間に渡るストライキが勃発し、工場は完全に操業を停止しただけでなく争議への出費もあって会社の財政は悪化していきます。翌年、住友電線製作所(現、住友電工)から川上嘉市を新社長に迎え、経営の立て直しを図ります。
河合小市が日本楽器を辞めたのはこのときのことです。

第二次世界大戦が勃発すると日本でも鉄製品の回収が行われ、ピアノなどの楽器の製造が禁止されます。ピアノ工場はすべて軍需品の生産に転用され、その結果、空襲によって工場のすべてが焼失してしまいます。
戦後の楽器産業は、ハーモニカ、シロフォン、足踏みオルガン、アコーディオンといった小型の楽器から徐々に生産が再開されます。戦後3年目には早くもスピネット型というアップライト・ピアノの製造を開始します。

1950年には川上源一が38歳で日本楽器の社長を継ぎ、事業を拡大します。1952年にはピアノ技術者をアメリカに派遣し、木材の人工乾燥のオートメション化を図り、1956年にはフレームの鋳造の一貫作業の独立工場を設立、分業化によるピアノの一貫した作業工程を創出します。

1954年、独自の音楽教室を設立し、1960年にはアメリカへ楽器を輸出するようになります。
1973年にアメリカのピアノ・ブランドであるエベレット・ピアノ・カンパニーとミシガン州サウスヘブンのエベレット社工場を買収し、この工場でアメリカ市場向けにヤマハとエベレットの両方のピアノが生産されるようになります。
1986年にこの工場は閉鎖され、ジョージア州トマストンヘ移転します。

1987年、創業100周年を記念して、社名が日本楽器からヤマハ株式会社へ改められました。

カワイ

Photo credit: jwbenwell via Visualhunt.com / CC BY-ND


1927年、日本楽器の内部問題を理由に退職した小市は、「河合楽器研究所」を設立し、同じくして日本楽器を退職した技術者ととともにピアノ製作を開始します。河合は「昭和型」と名付けた小型アップライト・ピアノを開発しますが、通常の大きさのピアノと同等の性能を持たせた上でヤマハピアノよりも安価にしたことで大好評となります。

翌1928年にはグランド・ピアノの製作を開始し、アクションや響板などの多くの改良を加えた上で22もの特許を取得します。1930年代には社名を「河合楽器製作所」と変更し、年間250台程度だった生産高は1,000台にまで増大します。第二次世界大戦中では工場が完全に破壊され、生産の見通しが立たなくなります。
小市の努力と、学校の科目に音楽が組み込まれたことにより工場は再設立され、1949年にはアップライト・ピアノとグランド・ピアノの生産が再開されます。1953年にはピアノ生産高が年間1,500台にまで伸び、従業員は500人にまで増大します。
日本におけるカワイの多大な功績を称えられ、小市は天皇陛下より藍綬褒章を授与されました。このような賞を受賞するのは、楽器産業界初となります。

1955年に小市が他界すると、息子の滋が会社を引き継ぎ、競争相手の妨害に苦しみながらも工場に近代的な生産技術を導入し、事業を拡大していきます。
河合滋は若い親たちに子供の音楽教育の有用性を訴えるなど積極的なセールス手法を取り、全国規模の音楽教室のネットワークと、音楽講師の養成学校を設立します。

1960年代にはカワイは約2,000人もの訪問セールス員を雇い、カワイ音楽教室には300,000人以上が参加するようになります。
アメリカ国内でピアノと電子オルガンを販売するために、カワイアメリカコーポレーションが設立され、カワイヨーロッパ、カワイカナダ、カワイオーストラリア、カワイアジアが続いて設立されます。

1989年に滋の息子である弘隆が社長に就任し、製造過程にロボット技術を導入するために莫大な資金を投入します。
近年、生産拠点をアメリカやマレーシアに設立し、より丈夫で安定したアクションにするため素材にABS樹脂を使用しています。

知られざる日本のピアノメーカーとブランド


日本のピアノメーカーといえばヤマハとカワイが双璧をなしていて、それ以外のメーカーとなると存在さえ知られていません。しかし、ヤマハとカワイ以外にも規模は小さいながらもかなりの数のピアノメーカーが日本には存在しているのです。中には一つのメーカーで幾つかのブランドを出していたり、OEM製品で実際には大手メーカーが生産している場合もありますが、いずれ劣らず個性的な楽器を生産していて、優れたピアノも少なくありません。
ここでは、日本の知られざるメーカーについてご紹介します。

ディアパソン

ディアパソンは、往年の名工である大橋幡岩(はたいわ)自分の理想とするピアノを造りたいという思いに駆られて誕生した個性的なピアノです。
大橋は13歳からピアノ製造に携わり、日本楽器でドイツのベヒシュタイン社から招かれた技術者シュゲーゲルの指導を受けます。その後、日本楽器の労働争議の影響で紆余曲折を経ながらも日本の気候風土に合致した優れたピアノを次々に開発していきます。
しかし、やがて日本楽器は経営を維持するために量産タイプの普及品の開発に方向転換をしたため、大橋は1937年に蒲田の小野ピアノに移ります。大橋は小野ピアノで6種類のディアパソンと往年の名器ホルーゲルも製作しますが、やがて日本は戦時体制に突入してピアノ生産が禁止されると、同社を退職して故郷へ帰京することになります。

戦後の1948年に、大橋は地元の浜松楽器製作所と提携し、ピアノの生産を再開します。大橋は理想のピアノを実現すべく独自のデザインや設計をおこない、自身の手で吟味した素材をノミやカンナ、ノコギリなどを使い3台のピアノを作り上げます。このピアノはディアパソン132型と名付けられましたが、その音質はドイツのベヒシュタインに似ていると高く評価され、ピアノ愛好家から熱烈な支持を受けるようになります。
しかし、採算も手間もまったく度外視した品質重視の少量生産だったため経営難に陥り、社長が他界すると経営者が交代するとともに経営方針が大量生産へと転換されます。これを機に大橋は同社を辞し、今度はみずから大橋ピアノ研究所を立ち上げて名器オオハシの生産を開始します。オオハシは、二代目大橋巌に引き継がれて製造が続けられ高い評価を受けますが、二代目の死とともにその歴史に幕を閉じることとなります。

一方で、浜松楽器もその後の過当競争の中で経営が悪化し河合楽器に吸収されますが、幸いにもディアパソンは河合楽器が当時のままの設計や造り方を尊重して造り続けられています。

ディアパソンの設計はほぼ当時のまま受け継がれており、その多くはヨーロッパで使われている方式が採用されています。そのため、ディアパソンは国産ピアノでありながら音色はかなりヨーロッパに似ており、音質はベヒシュタインに近いとされています。

ディアパソン

アポロ

アポロは東洋ピアノ製造が生産する典型的な手作りピアノです。その知名度は高くありませんが、日本の三大ピアノのうち、ヤマハ、カワイに次いでディアパソンかアポロが挙げられます。
アポロは石川隆巳社長自らが設計し、製作や指導に関わってピアノ製作を始めたのが起源となっています。
石川は日本楽器、また河合楽器で10年ほどピアノ製作を学びますが、1934年に独立して静岡県の竜洋町に三葉楽器製作所を設立し、ピアノ生産を始めます。このピアノはアポロと名付けられ、初期には社長自身が一台一台に毛筆でサインをして出荷していました。

東洋ピアノの生産規模は大手メーカーと比較にならないほど小さく、そのため手作りピアノの生産に力を注いでおり多品種少量生産である反面、とてもユニークなピアノを生産しています。
塗装の色にバリーエーションがあるほか、中にはハローキティやマイメロディが大きく描かれたキャラクターピアノも生産しています。

東洋ピアノ製造株式会社

シュバイツアスタイン

ヤマハ、カワイ、ディアパソン、アポロは元をたどると日本楽器にたどり着きますが、日本には日本楽器とまったく異なるピアノの歴史があります。
それが山葉とつねにライバル関係にあった西川寅吉が創業した西川ピアノです。また、のちに西川ピアノから独立した松本新吉が創業した松本ピアノです。

西川は横浜でクラーク商会のイギリス人調律師クレンやドイツ人音楽博士カイロの元で修行を積み、国産初のオルガン試作に成功します。やがて、1887年頃にはドイツとアメリカのモデルにならってピアノを造り上げ、西川ピアノを設立します。その後、西川の姪の夫だった松本新吉が西川ピアノから独立し松本ピアノを設立します。
西川ピアノは二代目と創業者西川の相次ぐ死によって日本楽器に買収され、ニシカワのブランドはやがて消滅します。また、松本ピアノも優れたピアノを世に送り出していましたが、関東大震災で工場を焼失し、経営上の問題もあり紆余曲折を経て初代はS.マツモト、二代目はH.マツモトとして再出発し小規模生産を続けますが、やがて消滅していきます。

しかし、松本ピアノで培われた技術はその職人たちに継承され、いくつかの手作りピアノメーカーとして生き残ることになります。ここで取り上げるシュバイツアスタインもその一つです。
シュバイツア技研がせいさんするシュバイツアスタインは、人道的な医師として著名なアルベルト・シュバイツア博士にちなんで名付けられました。その知名度は高くありませんが、さまざまな特許が織り込まれた手作りピアノとして異彩を放っています。

生産されているピアノは主にアップライト・ピアノですが、手作り注文のためいろいろなカスタム注文が可能です。価格としては手作りピアノでありながら大量生産型のピアノと同様の価格帯で販売されているのが驚きです。

シュバイツア技研

クロイチェル

クロイチェルピアノ製作所のルーツは松本ピアノに行き着きます。クロイチェルの年間生産台数はきわめて少なく、ピアノブランドとしてその名を耳にすることはめったにありませんが、クロイチェルピアノの品質は手作りピアノとして高く評価されていて、その存在を知る者の間では根強い人気を誇っています。

目にする機会は少ないものの、注文に応じてどんなピアノでも作れるという利点を活かし、東京ディズニーランドでは三輪自転車に搭載されたバイシクルピアノとしてクロイチェル製のピアノが展示されています。

生産量は少なく、グランドピアノは生産されていませんが、アップライト・ピアノは現在もかなりの機種が生産されています。ただ定価は決して安くはないのですが、理由としては響板にドイツのバイエルン産木材、弦にはトップクラスのピアノに使用されるドイツのレスロー社製ワイヤー、ハンマーにはドイツのレンナー製ハンマーが使用され、最上位機種に用いられる総アグラフが採用されているというぜいたくな作りになっているからです。
この仕様は高級輸入ピアノではしばしば見かけますが、国産のアップライトではめったに見かけない仕様となっています。

クロイチェルピアノ

シュベスター

シュベスターは、エスピー楽器製作所が生み出す正真正銘の手作りピアノです。シュベスターとはドイツ語で姉妹という意味で、知名度は低いもののその品質は日本でもっとも優れたピアノであると知る人の間では高く評価されています。

シュベスター製作所は供進社ピアノ製作所が前身で、松崎妙、松川賢一、小原太作の3人が共同出資した町工場で1929年に生産をしたのが始まりで、日本の現存するメーカーとしてはヤマハ、カワイに次ぐ3番目の古さを誇っています。初期のアップライト・ピアノはアメリカのツィンマーマンをコピーされたとされる松本ピアノをさらにコピーしたものでした。

1952年、日本の指導的な調律師である斎藤義孝の意向を受けて、ベーゼンドルファーのアップライト・ピアノをコピーしたものに変更されます。日本ではほとんどのピアノがドイツ系のスタインウェイかベヒシュタインを手本に作られていましたが、あえてウィーンのベーゼンドルファーを目指して設計された結果、新しいシュベスターは他に例を見ないデリケートな美しい音色と豊かな音楽表現力をもつようになりました。

戦中、戦後はシュベスターもほかのメーカーと同様にピアノ生産どころではありませんでしたが、1950年にはありあわせの材料をかき集めて戦後第一号のピアノを生産します。何度か経営の危機に直面しつつも経験豊かな古い世代の調律師たちの援護もあって持ち直し二代目松崎保男が経営を受け継ぎますが、保男はピアノとは無縁の数学者だったため、熟練したピアノ技術集団に権利を譲り、シュベスターの設計はそのままにエスピー楽器製作所として今日まで生産が続けられています。

シュベスターの特徴として、調律師が手を加えることによって、年月が経つとその美しさにさらに磨きがかかると言われており、その美しい音色を出すためにいくつかの工夫がされています。
シュベスターの響板には入手しにくいけども響板としては理想とされる北海道のエゾマツを使用し、すべて完全な手作業で響板に加工しています。また、音量の増加のために普通では弦の張力を平均90キロ程度にまで高めていますが、シュベスターでは平均70キロ程度に抑えて、なおかつ豊かで華麗な音が出るように工夫されています。このように張力を低く抑えることで、ピアノに負担がかからず長年に渡って暖かく美しい音色を響かせるようになっています。

シュベスターは完全な手作りピアノであるため、塗装やデザイン、消音装置、自動演奏機能など、注文に応じてきめ細かい対応が可能です。生産がきわめて少なく、一度手に入れた人はめったに手放すことなく長く使用されるため、めったに中古品が出回ることがありません。

シュベスターピアノ

そのほかの国産ピアノメーカーとブランド

ほかにも、現在も生産を続けているメーカーが多く残っています。
ここに一覧を載せようと思いましたがあまりの多さに挫折したので、以下のサイトをご参照ください。
渡辺ピアノ調律事務所 |国産ピアノブランド(メーカー)

ちなみに、国内外のピアノメーカーを合わせると650社も存在しています。
ピアノ調律用ピアノカルテ |日本と海外のピアノブランド 650種一覧&トレードマーク紹介

締めくくり

今までカワイとヤマハってただのライバル関係だと思っていたのですが、日本のピアノの歴史を調べてみて初めてカワイとヤマハが深い関係でつながっていたことを知りました。
それと、ヤマハとカワイ以外にも日本のピアノメーカーがあったなんて知りませんでした。機会があれば触れてみたいものです。

また、バイエルも古い歴史があったんですね。今、バイエルを練習しているくらげとしては感慨深いです。
現在、バイエル離れが進んでいるのは初心者向けにしては案外難しいことと「つまらない」、19世紀前半の作品であるため19世紀後半から20世紀以降の音にそぐわないなど問題点が上がられているからです。

こうして日本のピアノの歴史を調べてみると、長い期間を経てピアノが浸透していったヨーロッパや現代ピアノが誕生するきっかけになったアメリカとは違って、歴史は浅いのですが日本独自の歴史を歩んできたように感じます。
歴史が浅いとはいえ、今ではしっかりと根付いている日本のピアノ文化が今後どういった変化を遂げていくのかはわかりません。たとえその文化が途絶えることになっても、また新しいカタチで新しく生まれ変わっていくのではないかと考えています。

参考文献

大宮眞琴(2009) 『新版ピアノの歴史 楽器の変遷と音楽家の話』 音楽之友社
西原稔(2013) 『ピアノの誕生・増補版』 青弓社
ジョン=ポール・ウィリアムズ(2016) 『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』 ヤマハミュージックメディア
斎藤信哉(2007) 『ピアノはなぜ黒いのか?』 幻冬舎
足立博(2002) 『まるごとピアノの本』青弓社

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