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マリー・アントワネットの一生を知る美術展【マリー・アントワネット展】

六本木の森アーツセンターギャラリーで開催中のマリー・アントワネット展を観てきました。

この美術展は、ヴェルサイユ宮殿が企画監修しており、華やかな宮廷生活を描いた絵画やマリーが愛用した食器や家具、衣服など200点あまりの展示、宮廷内のマリーのプライベート空間の再現など見どころ満載で、2016年10月25日〜2017年2月26日まで開催しています。

入場するまで大行列

さすがにこの時期は落ち着いているだろうと思っていたのですが、会期終了4日前だと駆け込みに来る人が多くて大混雑でした。
今回はチケットを買わずに行ったため、平日お昼にも関わらずすでに当日券を買う長蛇の列が延々と続いています。

12時40分に並び始め、チケットの購入できたのはそれから約90分後の14時07分。
エレベーターに乗るまでに40分待ち、52階の開場前で10分待ち、会場に入れたのは15時前です。

今回の音声ガイドは木村佳乃、マリー・アントワネット役に女優の花總まり、語り役とフェルセン役ほかには、声優の平川大輔と聴き応えは充分そうだったのですが、混んでいてゆっくり観ながら聴く余裕はなさそうだったので断念しました。

それでは、さっそく鑑賞とまいります。

ウィーンからヴェルサイユへ、皇女から王太子妃へ

まず最初に懸かっていた絵は、1755年に描かれた作品。『1755年の皇帝一家の肖像』です。

マリー・アントワネットは、1755年11月2日、名門ハプスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝フランツ一世と、オーストリアの女帝マリア・テレジアの5男11女の11女の末娘としてオーストリアのウイーンで誕生しました。

マリア・テレジアは子供が生まれるたびに宮廷画家に家族の肖像画を描かせており、この作品もその一つです。
このとき、マリーはまだ生まれたばかり。この作品で初めて家族の肖像画に登場します。

この絵を見ていても、いかにマリーが恵まれた環境で生まれ育ったことが想像できます。

続いて、チェンバロの前で微笑む皇女の肖像画。『チェンバロを弾くオーストリア皇女マリー・アントワネット』

この作品は、14歳のマリー・アントワネットがフランス国王ルイ16世の元に嫁ぐ直前に描かれた作品です。
マリーは幼い頃から宮殿でバレエや音楽の教育を受けていたので、おそらくチェンバロの演奏は得意だったのでしょう。

この2つの作品の他に、マリーの母である『オーストリア大公マリア・テレジア』、『王太子妃マリー・アントワネット』、『63歳のルイ15世』などいろいろな肖像画が展示されています。

王家の結婚


1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿の王家の礼拝堂でルイ16世とマリー・アントワネットの結婚式が挙げられました。

マリー・アントワネットがヴェルサイユに到着してから、結婚式の様子まで事細かく肖像画が残されています。
中には、王太子とマリー・アントワネットの結婚記念の扇までも残されています。革命期に紛失されなかったのが奇跡だと思います。

また、王立ゴブラン製作所によるマリー・アントワネットの肖像が織られたゴブラン織のタペストリーなんてのもあります。
なんて贅沢なことでしょう。

さらには、『王太子妃マリー・アントワネットの紋章入り旅行用の箱』なんてのもあります。
長持のような形状で、旅行用とは言え、33.5×74×49cmのかなりでっかい箱です。いいですわね。自分で運ばない方は。

続いて、オペラ座の緞帳なんていうのもあります。
金と銀の刺繍糸が使われていて、非常にゴージャスです。ホコリが溜まりそうなんて思ったくらげは現実的すぎです。

ヴェルサイユ宮殿内では王立オペラ劇場の建設が1660年から進められており、王太子とマリー・アントワネットの結婚式に向けて1770年5月16日に完成し、結婚式の祝宴の夜に落成式が行われました。
その落成式の祝宴に使われた、王立セーヴル磁器製作所製の『王太子の結婚祝いのテーブル飾りの部分的復原』が展示されており、その大きさゆえにぐるりと回って全方向を眺めることができるようになっています。

即位-王妃マリー・アントワネット

1775年、ランスのノートルダム大聖堂でルイ16世の戴冠式を行います。
このとき、ルイ16世は20歳、マリー・アントワネットは19歳。若き国王夫妻の誕生です。

セーヴル磁器製作所はこの時の戴冠式を模した、磁器による装飾を作成しています。
頭に王冠を載せ、百合の紋章が入ったマントを纏っている王と王妃の間には祭壇が置かれています。
まるで、未来永劫続くであろう王政の輝かしい未来を象徴しているようで、この数十年後に起こる暗い未来は誰もが想像し得なかったことでしょう。

マリー・アントワネットと子どもたち

王位継承時、まだルイ16世とマリー・アントワネットとの間に子供はいませんでした。
子供のできないマリーの身を案じた母のマリア・テルジアは、息子でマリーの兄である神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世をマリーのもとに送ります。そこで子供のできない理由はルイ16世自身の体にありることが判明し、不妊治療を受けたことにより結婚7年目にしてようやく二人の間に子供が誕生します。

1778年12月20日に、一人目の子供であるマリー・テレーズ・シャルロット・ド・フランスが誕生。1781年10月22日には待望の嫡子である長男ルイ・ジョゼフが誕生します。
嫡子の誕生に際し、パリ市は市庁舎の大広間を飾るための大型の絵画を画家に依頼します。

「賢明」と「健康」の寓意に先導されたフランスを象徴する女性像が左側に描かれ、その腕の中には王太子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワが抱かれています。
その周りには、剣、蛇、果物など象徴的なものが女性像を囲み、空には天使が踊り祝福しています。
下には嫡子誕生を喜ぶ市民たち、右側にはおそらく政府のお偉いさん方が女性を見つめています。

どこか神秘的な印象を受けるこの絵画は、王政の権威の象徴でもあり、少しづつ湧いてきていたマリーへの市民の反感に対して聖母でマリーとして偶像化しているようにも感じます。

また、市内では嫡子誕生に対して市を上げて祝福するために花火大会が開催されています。
その様子を伝えるために、エッチングで作成された挿絵のような絵画が何点か展示されています。

ファッション女王としてのマリー・アントワネット

1770年にフランスへ嫁ぐ際、マリー・アントワネットはパリの華やかなファッションに魅了されます。
派手なデザインのドレスや装飾品を身にまとい、時にはお忍びで仮面舞踏会へ出かけることもあったようです。

しかし、そんな王妃の姿を快く思わない人々はマリー・アントワネットのことを非難し、噂は母のいるウィーンにまで届きます。そんな娘を母マリア・テレジアはたしなめますが、マリーは耳を貸すことなくそういった行動はエスカレートしていきます。

ここでは、ドレスや大盛装姿のマリー・アントワネットの肖像画が展示されています。
エッチングと水彩で描かれたその絵は、雑誌の挿絵になりそうなおしゃれな雰囲気を醸し出しています。

また、乗馬の得意だったマリー・アントワネットは乗馬服を身にまとい狩りをする姿も描かれています。
乗馬服とはいえ、ウェストを絞ったコート型の真っ白なドレスを身にまとい、頭にはダチョウの羽で飾られた帽子をかぶっており、その姿はとても優美です。しかし、狩りをするのに白い服を着たら汚れるではないかと思ってしまうくらげは、平民です。

王妃に仕えた家具調度品作家たち

マリー・アントワネットは衣裳だけでなく家具や調度品、宮殿内の装飾にも執着しました。

『寝台の上掛け』は、その名の通りベッドカバーです。まるで絵画のように花の絵を繋いだ模様が描かれているのですが、すべて絵ではなくクリーム色の繻子(艶のある織物)地に刺繍糸で刺繍が施されています。どれくらいの時間と手間が費やされたのだろうかと思うほど手が込んでおり、その工程を考えると気が遠くなります。

さらに、スフィンク像が象られた金色の一対になっている『ヴェルサイユ宮殿の王妃の寝室の薪台一対』、磁器と金が施されたワインクーラー、『鷲の頭をあしらった枝付き灯台』など、うっとりしてしまうほど細部まで繊細な装飾の施されている美しい調度品が多く現存しています。

調度品だけでなく壁の装飾にも凝っていて、壁布は夏と冬で張り替えています。

さらに、マリー・アントワネットのコレクションは遠く日本の工芸品にも及びます。
展示されているのは、いずれも蒔絵の小物です。

王妃マリー・アントワネットの日本の漆器類のコレクションは、大公の死に際して50点の漆器が遺贈された時から始まります。また、1778年に第一子を出産した際には、マリー・アントワネットは母のオーストリア大公マリア・テレジアから日本の漆の箱を贈られました。

マリー・アントワネットは贈り物として受け取ったこのコレクションを展示するだけでは飽き足らず、それ以降も金めっきされたブロンズ台座付きの装飾品でコレクションを充実させます。コレクションの全容は70点を超えるもので、その多くが17世紀のものです。
マリー・アントワネットが日本の工芸品をコレクションしていたことは、この時初めて知ったのですが、日本との繋がりがあったことを知って嬉しくなりました。

再現されたプチ・アパルトマン

ここでは、ヴェルサイユ宮殿の中央棟1階にある広大なアパルトマンを再現しています。

このアパルトマンは、ルイ16世の叔母が住んでおり、亡くなって以降は空室になっていました。
マリー・アントワネットは娘の教育のためにこのアパルトマンに娘を住まわせます。また、マリー・アントワネット自身は浴室、図書室、居室の3室からなるチ・アパルトマンを自分の部屋とします。
部屋自体は19世紀に入って歴史美術館を創設するために取り壊されてしまいましたが、近年になって浴室と居室が復元されました。

このマリー・アントワネット展ではアパルトマン内の居室と寝室が再現されており、ここだけ写真撮影が可能になっています。

寝室

こちらは寝室です。

寝台はマホガニー製、ナイトテーブルはマホガニーと大理石でできています。化粧用肘掛け椅子は、ブナ材に彫刻と塗装を施し、布地はダマスク織を使用しています。

化粧用テーブルはマホガニー、ブロンズ、金メッキでできています。上に乗っているのは、綛機という絹糸紡ぎ用の糸車第です。

燭台はブロンズに金メッキを施し、モンスニ産クリスタルガラスを使用しています。

浴室が人が多くて撮れませんでした。

映像による図書室の再現

図書室だけは消失したままなのですが、東京駅の3Dプロジェクションマッピングや「FLOWERS BY NAKED」を手掛けたクリエイティブカンパニーNAKEDが、パリの国立古文書館に保管されている設計図などをもとに、バーチャルリアリティで再現しています。

図書室の大きな窓が開いており、そこに一冊の本がぱたりと床に落ちます。ふとそこへ風が吹き、パラパラとめくられた本は次第に綴られていたページが一枚づつ風に乗って飛ばされていきます。
やがて時が過ぎ、次第に窓の外は夕暮れに変化していき、気づくと外はもう真っ暗。月の光が図書室を煌々と照らします。
夜はしだいに更けていき、そして朝を迎えて新しい1日が始まります。

うろ覚えなんですけど、ざっとこんな感じです。
音と光、映像による演出に思わず引き込まれてしまいました。こんな図書室で1日過ごせたら、くらげはとても幸せです。

マリー・アントワネットのセーヴル磁器の食器セット

1777年、マリー・アントワネットはヴェルサイユ宮内で開催されていたセーヴル製作所の販売会で、セーブル磁器の食器セットを母のマリア・テレジアに贈っています。

セーブル磁器は、フランスのセーブルで生産されている磁器で、古伊万里や柿右衛門風の絵付けをしていたデュポア兄弟が当時のフランスの大蔵大臣に招かれ、1738年にパリ東端にある
ヴァンセンヌ城内に窯を構えたのが始まりです。そのため、日本の伊万里焼を下地にした独特の鮮やかな色彩の装飾が施されています。

中でも『食器セット「日本より」』という皿は、青地でまとまった下地となる装飾を施し、その上から鉄でさらに装飾を付け足し金色で蔦のような装飾を加えるという日本独特の技法を用いられており、日本人ならこれは日本の影響を受けていると誰もが思うようなデザインになっています。

王妃の私的な離宮:トリアノン

1774年、ルイ16世は王妃に小トリアノン宮殿を与えます。「小さなウィーン」と言う意味のプチ・トリアノンと呼ばれるようになったトリアノンの内装はロココ様式の最高峰とも評されていて、小さな劇場もあります。庭園はイギリス式で整え、さらには田舎の農村に見立てた小さな集落までも作ってしまいます。

このプチ・トリアノンで、マリー・アントワネットは大胆なファッションを思う存分満喫し、宮殿の中で最もこの場所を愛しました。

1787年、マリー・アントワネットはプチ・トリアノンの部屋の装飾を一新することを希望します。
装飾品の一つが、『通称「二羽の雛鷲のついた」置時計』です。金メッキを施したブロンズで作られており、台座は格子状に組まれていて柳を編んだ籠のような脚部に載っています。その上には、二羽の鷲が時計を支えるようにしており、その上には文字盤、更にその周りは花や葉で装飾されています。
あまりに緻密で繊細なデザインに、ほれぼれと眺めていました。

農村では、酪農小屋などもあったため、椅子や移動用の折畳式簡易腰掛けなどがあるのですが、いずれもマホガニー製で精密な彫刻が施されています。

フェルセン伯爵

マリー・アントワネットを知る上で欠かせない人物が、マリー・アントワネットの恋人と噂されていたスウェーデン人のフェルセン伯爵です。
マリー・アントワネットとフェルセン伯爵は、1771年の仮面舞踏会で出会います。

2人は年齢が近かったこともあり急速に親しくなっていきますが、王妃の悪いうわさが立つのを避けて自ら身を引くためフランス遠征軍に加わり、アメリカへと旅立ちます。
それでも、マリー・アントワネットのことを愛していた彼は、舞い込んでくる縁談を断り続けていました。

4年後、フランスに戻った彼は献身的にマリー・アントワネットを支えます。
また、国王一家がテュイルリー宮殿に軟禁された際もヴェルサイユを引き払ってテュイルリー宮殿のそばに居を構えながら国王一家を支援し、国外逃亡のお膳立てをしました。

首飾り事件

1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による首飾り事件が起こります。
この事件により、民衆の不満が一気に爆発。革命が勃発するきっかけになりました。

事件の概要。

この有名な事件は、ルイ15世の治世の末期に端を発している。550個以上のダイヤモンドから成る豪華な首飾りをデュ・バリー伯爵夫人に贈るつもりだったルイ15世は完成を待たずに亡くなり、その後マリー・アントワネットは購入を拒否していた。
ラ・モット伯爵夫人が、王妃から不興を買っていたロアン枢機卿に、自分は王妃と親しい仲にあると信じ込ませ、王妃がロアンに再び寵愛を与えるのと引き換えに、首飾り購入の仲介を希望していると嘘をついた。ロアンはヴェルサイユの庭園で王妃に扮した女性と落ち合い、後日、首飾りをラ・モット夫人に託したが共犯者たちがすぐさまイギリスに転売したため、首飾りが王妃の手に渡ることはなかった。
制作した宝石細工職人たちが王妃に支払いを求め、スキャンダルが発覚したが、この事件は軽薄で浪費家というマリー・アントワネットのイメージを定着させ、王室にも大きな打撃を与えた。マリー・アントワネット展:第10章 首飾り事件

会場には、首飾りの複製が展示されています。この首飾りを着けていたら、重そうだなという実感しか湧きませんでした。
あと、ところどころにリボンがあしらわれているのですが、正直なところ「え?何でリボン??」という印象を受けました。ダイヤモンドには釣り合わない感じがするのです。

それ以上に、利用された挙句に民衆のひんしゅくを一気に買うことになってしまっただけに、呪いの首飾りとしか思えません。

革命の動乱の中の王妃

首飾り事件を筆頭に、民衆による信頼を失ったマリー・アントワネット。その頃から、王政に対する批判を風刺した風刺画も描かれるようになります。
こういった風刺画はエッチングと水彩で描かれており、新聞の風刺画のような雰囲気です。

1789年7月14日、王政に対する民衆の不満が爆発し、ヴァスティーヌ牢獄の襲撃を皮切りに革命が勃発します。
激昂した民衆は国王一家に、ヴェルサイユを離れてパリのテュイルリー宮殿に住むよう強要。国王一家はヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移されます。

この頃にマリー・アントワネットは、フェルセン伯爵と暗号表と暗号を使った手紙を交わしています。
暗号表と暗号を使った手紙も公開されていますが、読んでもわからないためさすがにここは音声ガイドを使って聞いてみたいと思った場面です。

1791年6月、逃亡を企てた国王一家はヴァレンヌで捕らえられ、失意の中パリへと引き戻されます。
以降、国民から見放され囚われの身となった国王一家はタンプル塔へ幽閉されてしまいます。

牢獄から死刑台へ


タンプル塔は13世紀にテンプル騎士団の本拠地として使われており、騎士団が廃止されたあとは聖ヨハネ慈善修道会に分与されました。
フランス革命後は修道会が廃止され、フランス政府の所有物となり監獄として使用されることになります。

幽閉とは言え従者2名、侍女4名が付けられ、規則正しい生活を送ります。
ここでの暮らしは一家にとってつかの間の安らぎを感じるひとときでもありました。
そうした一家の生活は肖像画にも残されています。

また、ルイ16世は自分の跡継ぎにあるであろうルイ・シャルル王子に自ら勉強を教えていました。
そのときに使用した、習字帖、書き方の練習、勉強の合間に遊んだゲーム盤が残されています。
習字帖に書かれていた文章は、「国民に愛される、国民に愛される・・」という非常に見ていて切なくなるものでした。

マリー・アントワネットのタンプル塔での暮らしは、宮殿にいた頃と比べるとたいそう質素なものへと変化しました。
その頃に使用していたおしろいや化粧用瓶も残されています。

また、タンプル塔で使用していたシュミーズ(肌着)も残されています。このシュミーズは、バチストと呼ばれる薄手のリネンでできています。
このシュミーズはマリー・アントワネットの死後、娘マリー=テレーズによって保管され、1795年にタンプル塔の警視エティエンヌ・ラヌの手に渡りました。

1773年1月、裁判により死刑の確定したルイ16世はギロチンによる斬首刑に処されます。
その時の様子を描いた肖像画は、一家の悲しみがストレートに伝わってくるものでした。

7月には王位継承者であるルイ・シャルル王子と離別させられ、コンシェルジュリ監獄に移送されます。

10月には革命裁判所に出廷しますが、判決は初めから決められていたものであり、偽証と中傷に満ちた有罪判決を決定づける証拠固めでしかありませんでした。
そして1793年10月15日、ついに有罪判決が宣告されることになります。死刑は翌日の16日に執行されます。

死刑宣告が宣告された日、マリー・アントワネットは義妹エリザベート宛に長い遺書を書き残します。
しかしこの遺書をエリザベートが読むことはありませんでした。看守から革命独裁者の手に渡り、1816年に長女のマリー=テレーズに渡るまで20年近くの時間を要したのです。

遺書を書き終えたマリー・アントワネットは、跪いて神に祈りを捧げると、ベッドに横になります。
明け方、部屋係が朝食について尋ねると、「自分は何もいらない。すべては終わった」と涙を流しながら告げます。

処刑当日。マリー・アントワネットはそれまで身につけていた喪服を脱ぎ、白い質素な衣裳に白い帽子を身に着けます。
死刑執行人によって手が縛られ、髪は短く刈り取られ、死刑執行上へと引き立てられていきました。

そのときの肖像画は、背筋を伸ばし上を見つめるマリー・アントワネットの姿が描かれています。
彼女の前には、憎悪に満ち今にも飛びかからんとする民衆を制止する兵士たち。
死刑を目の前にして取り乱すような姿はそこにはありませんでした。お強いですね。

死刑台に登ったとき、彼女の片方の靴が脱げ落ちました。
そのときの靴はそこにいた人物に拾われ、貴族の手に渡ります。

それが、『マリー・アントワネットの「サン=チュベルティ風の」短靴』です。
ボルドー色の革靴で、ヒールが短いため短靴と称されています。

靴の中敷きらしき紙には、当時の様子が書かれていました。
「王妃マリー・アントワネットが死刑台にのぼった忌まわしい日に履いていた短靴。
この靴は、王妃が脱ぎ落としてしまったまさにその時、ある人物に拾われて、すぐさまゲルノン=ランヴィル伯爵殿に購入された」とされています。

殉死した王妃への崇拝


あれほどまでに激しい憎悪の対象とされていたマリー・アントワネットは、一転して崇拝の対象へと変化していきます。

彼女の最期の肖像画は、ルイ16世を悼む喪服姿が描かれています。
やがてこの絵画と死刑台にのぼる直前に描かれたクロッキーが王党派にとっての聖画像となり、広く流布します。

一方、ルイ・シャルルは彼女の死後、凄まじい虐待を受けた後、壮絶な最期を遂げます。
そのときの姿が大理石の像として残されているのですが、その姿はか細い半裸の身に鎖が巻きつけられたもので見ているだけで痛々しく感じます。

そして、会場の最後に展示されていた作品は、王立ゴブラン製作所による『マリー・アントワネットと子どもたち』。
これは、大きさが282×210cmもある堅機織のタペストリーで、羊毛と絹が使われている非常にゴージャスなものです。描かれているのは、幸せそうに微笑む王妃の膝下にはルイ・シャルルの姿があります。その横には、長女のマリー=テレーズ・シャルロット・ド・フランスが母の身体に身を寄せて微笑み、長男のルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワは誰もいないゆりかごのカーテンをわずかに開いています。

かつての幸せだった時代のマリー・アントワネットたちの姿がそこには描かれていました。
壮絶な一家の最期の姿を思うと、やるせない気持ちになります。

締めくくり

今回、マリー・アントワネットという1人の女性が生きた時代の片鱗に触れてみて、巷で言われているほど悪い女性ではないなと言う印象を受けました。
聡明で自由奔放でオシャレに関してはちょっと行き過ぎたところもあるけど、子どもたちのよき母でもある、そんな女性です。

マリー・アントワネットというと、「フランスの国財を浪費し財政を破綻させた悪女で、パンを求める民衆に対し「パンがなければお菓子を食べればいい」と言い放った」。
こうした認識がすっかり日本人の間にも浸透してしまっていますが、すべて誤解です。

実際にはルイ15世の時代に起きた数回の戦争により、すでに財政は逼迫していました。
また、パンの件は高い小麦を使ったパンではなく安い小麦を使ったブリオッシュを食べればいいと言う意味であり、またマリー・アントワネットが発言したという記録はどこにも残っていません。

そういった意味でも、民衆が作り上げたイメージというのは時には恐ろしいものになるものだと実感しました。

それと、漫画と宝塚のベルサイユのばらを観てみたくなりました。

今回紹介した作品の一部は、下記サイトで見ることができます。
マリー・アントワネット展:作品紹介

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